声優の仕事で、スカイトレインとバスを乗り継ぎ、サレーに遠征。仕事は滞りなく終わり、帰りのバスに乗る。隣に乗り合わせたのは40代後半の韓国人男性。駅まで何分?と聞かれたことで、一仕事終えた開放感も手伝って会話が始まる。
彼はソウルにある中学校の英語教師。他の25人の先生方と一緒に、公費で一ヶ月間語学研修に来ている。今日はチャイナタウンの春節祭に出かけるところだった。
見知らぬ人と話すのは苦にならない。子供の時から人見知りをした覚えもない。あまりにどこの誰とでも親しくなるので、さらわれないかと親が心配したくらい。でもさすがに大人になって、初めての人と話す時の話題には気を遣うようになった。
一番無難なのが食べものの話。美味しいものはみんな好きだし、食文化が違えばそれこそ話が盛り上がる。私がソウルで食べた烏骨鶏の小鍋、参鶏湯 サムゲッタンの話をすると、予想通り彼は、あれは食べたかこれは食べたかと話に乗ってきた。
その勢いで、犬鍋(補身湯 ポシンタン)は食べたかと言った時、一瞬たじろいだ。いや、その内容にではなく、彼の放った言葉に対する、まわりの反応に。私たちの会話は当然英語だったから、前に立つ白人女性も通路をはさんだ横のアジア系男性も、聞くともなしに聞いていたに違いない。
Dog Hot Pot という単語が耳に入ったらしきその女性は、不快感をあらわにして睨んでくる。でも彼は、それがどれだけ身体にいいか美味しいか、偏見を跳ね返すがごとく力説し始める。そりゃ日本人だって、馬も食べるしクジラも食べる。もっといえば、タイやシラウオの躍り食いだってある。でも狭い車内での話題にしては危険すぎる。熱心な動物愛護団体の活動家が乗っていないとも限らないし。
私は、口角泡を飛ばして話し続ける彼の一瞬の隙をついて、もうお土産は買いました?と別の話題に連れ出すことに成功した。だからお姉さん、もうそんなに睨まないでってば。ふぅ……。
☆☆☆
クジラや犬がダメで、牛や豚ならいいのか。動物を食べるのはかわいそうというが、野菜だって生きているではないか。何を食べるか食べないか、肉食か菜食か不毛な議論が繰り返されるたびに、なぜ人の食卓がそんなに気になるのかと不思議になる。
食べるものが植物でも動物でも、命をいただいて、生かされているという感謝の気持ちをもっていれば、何を食べてもいいと思う。理屈ではなく、感覚でもなく、事実として私たちは食べずには生きてはいけないから。
野菜にも動物と同等の命がある。大小や多少、動静にその重さは変わりない。ただ、自分の命を生かすために、奪う命の種類はここまでと限定するのが菜食をする人の生き方。そこには優越も卑下も必要ない。それはまったく個人の選択の範疇で、たとえ親子であろうとも、まわりがとやかく言うべきものではない。
食生活でも宗教でも物事の考え方でも、個人の意志を尊重し、違いを認め合う受容の社会になればと、切に願う。
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バンクーバーで見かける犬はお利口さんが多い。つないでいなくても、車の番はするし店番にもなる。
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