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今年も遅ればせながらおひなさまを飾った。2月中に出して、3月3日を過ぎたら一日でも早くしまわないと嫁ぎ遅れる、と亡き祖母が言っていたような。でももう結婚してるし、これ以上遅れようがないから、いつも思い出して飾るのは桃の節句のその日。
うちは息子2人だから本来はおひなさまは飾らないはずだけど、これは私のため、私のおひなさま、私が買ってもらったもの。
幼稚園から帰ってきたら、六甲の家の広間におひなさまの段々飾りがあった。緋毛氈に金屏風、桃色のぼんぼりが目に鮮やかで、しばらく座り込んで見惚れていたっけ。三人官女に五人囃子、右大臣に左大臣、仕丁、お道具もいっぱいあって、勝手に段から降ろしておままごとをして叱られたことも数知れず。でも、その後、私のおひなさまが飾られた記憶はない。
6歳の時、祖父の法要を営んでいたその日、うちが火事になった。2階の洋裁室で母が使いさしにしていたアイロンが倒れて、アイロン台を溶かし、裁縫台を焦がし、まわりの型紙や生地に火がついたらしい。「お宅火事とちゃいまっか!?」と隣人が飛び込んできた時には、もう2階に火の手が上がり、煙が階段を伝ってこちらをうかがうように這い下りてきていた。
私は伯父に抱きかかえられて家から飛び出し、祖母は和尚さんに手を引かれて縁側から転げ出て、集まっていた親類は皆、道路を隔てた向かい側に避難した。1歳の弟は伯母に抱かれている。母は? 見回しても燃えさかる炎に見入る大人たちの中に母はいない。「ママは? ママがおらへん! ママどこや!?」 突如叫んだ私に、大人たちも我に返ったようにあたりを探し始めた。
母はその頃、煙が充満した部屋で型紙をつかんで箱に入れていた。お客さんから預った生地や仕上がった服をとにかく持ち出そうとしたらしい。でも臨月に近かった母の動きは遅く、煙と熱で意識が朦朧としかけたところを「奥さん、何やっとんねん! 早う逃げんと!」と消防隊員に引っ張り出されて、煤だらけになって家から出てきた。
2階は丸焼け、1階は水浸し。焼けた家独特の焦げ臭く湿った臭いは、今も記憶の底にこびりついている。家具も服も本もおもちゃも使いものにならず、文字通り着の身着のままで近くに小さな部屋を借りて身を寄せた。建て替えるまでのことを、なぜか私はほとんど覚えていない。火事の次には親の離婚で、記憶がぶつぶつと途切れている。
私が成人した頃、母が大きな箱を倉庫から出してきた。11歳の時に六甲の家を処分してマンションに移り、昔のものはすべて地下の倉庫にしまい込まれていた。10年も日の当たらない場所に押し込まれていた箱はどれも黴臭くて、さわるのもためらわれたけど、箱に「御雛飾り」とあるのを見て、ちょっとドキドキしながらひとつひとつ開けていった。
記憶の中であれほど鮮やかだった緋毛氈はシミとカビだらけで、金屏風にも水染みがある。お道具は接続部分がダメになり、官女もお囃子も一番大切な顔が救いようのない状態。これはもう全部荒ゴミ行きだと思いつつ最後の箱を開けたら、お雛様とお内裏様は奇跡のように無傷だった。たぶん一番大切に何重にもくるんで奥の方にしまわれていたから、火事の時に水をかぶらず湿気にも当たらずにすんだに違いない。
7段飾りの大所帯が内裏雛だけになってしまったのを見て、昔は羽振りもよかったのに今はこんな暮らしになっちゃって、と自分の一生を振り返ってつぶやく母。いろんなしがらみがなくなって、かえってさっぱりしたじゃんと私。ふたりだけで、なんの嫁入り道具もないのが私に似つかわしく思えて、結婚してから初めての里帰りの折にバンクーバーに持ち帰った。
お雛様の扇子は私が作った金色の折り紙細工。冠もなくて、ところどころ房飾りもとれてしまっているけど、やわらかな微笑みは昔のまま。春になると箱から出して、お道具の代わりに庭の花を添える。縁あって私とともに海を渡ってきた人形たち。平穏な暮らしの証にも思えて、眺めていると心が和む。
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